|
『コスモロジーの再構築』
|
|
2009/11/25(Wed)
|
|
『コスモロジーの再構築』という表題のブログ記事を発見した。
コスモロジーの再構築 - Quantum Sense - Yahoo!ブログ 丁寧な言葉と実例で語られており、わかりやすい。 *記事紹介のみとなってしまうが、あまり付け加える点がないので、記事紹介のみに留める。 |
|
『宇宙に心はあるか』 #2
|
|
2009/11/22(Sun)
|
|
現在頂点にあるものを利用したい気持ちはわかる。
というか、それ以上については考えられない。 だからといって、そこが通過点なのか究極なのか意識する必要があるのではないか? 今まで何度もだまされてきたのだから。 究極への道は程遠い。 悟りを開いた人 なんて信じない方がいい。 自ら喧伝している人は、大抵ニセ者である。 もちろん、通過点と意識した上で、だまされていることを承知の上で自分だましの手段として意識的に使うのであればよい。むしろ、そういう利用形態の方が教祖側からも推奨されるはず。 そういう宗教がホンモノだと思っている。 つまり、宗教とは、縁のない世界の縁を与えるもの。つまり、自分だましの手段。だって、縁がないのが正解で、縁があるのはウソなのだから。ウソとわかったうえで、縁がないと起点が定まらないから仮初めの起点として宗教を利用する。 それが本当の宗教。 |
|
『宇宙に心はあるか』
|
|
2009/11/21(Sat)
|
|
『宇宙に心はあるか』という刺激的なタイトルの本を発見した。
『宇宙に心はあるか』 (Victor J. Stenger 著) (原題:THE UNCONSCIOUS QUANTUM - Metaphysics in Modern Physics and Cosmology - @1995) 訳すると、 「無意識の量子 〜現代物理学における形而上学と宇宙論〜」 あるいは、「無意識の量子 〜現代物理学と宇宙論における形而上学〜」か? まぁ いいや、どっちでも。 私の敬愛する岡野先生の主張の裏づけになるかもしれないと思い、読んで見ることにする。 岡野先生の主張の私の理解はこうである。 「宇宙のすべてはつながっている」 「人間は宇宙とつながっている」 「人間は宇宙と一体だ」 「人間は心を持つ」 従って、「人間と一体の宇宙は、心を持つ」 「人間は、宇宙の感覚器官だ」 というようなものである。 まぁ、これは、 「人間は細胞を持つ」 「細胞はミトコンドリアを持つ」 従って「人間はミトコンドリアを持つ」 というようなものだ。 つまり、 「AはBを持つ」 「BはCを持つ」 ゆえに「AはCを持つ」 ということだ。 だからどうというものではない。 だから「すばらしい」とか、だから「くだらない」とか そういうのとは、関係ない。 仮に「だから、すばらしい」と言いたいのなら、その理由を示さなければならない。 科学の裏づけって、そんなに魅力的? 科学って、必ず「覆しうる可能性を持つ」ものだよ? 科学って、ある意味「人間」と似ている。 現在、人間は 食物連鎖の頂点に立っている。 地球上を 事実上 支配している。 しかし、それは仮初めの姿。 人間に取って代わる生物が出現するまでのこと。 とはいえ、取って代わられるまでの間は、人間が王様だ。 科学(今のトレンドでは量子力学)とて同じこと。 次世代の科学に取って代わられるまでの間、この世を支配する。 科学は科学の世界に留まっていない。 科学上の発見・転換は、哲学・思想に多大なる影響を与える。 科学が望む望まざるに関わらず、科学者以外が科学を他目的利用する。 やはり、科学は魅力的。仮初めとはいえ、だって、事実上王様ですもん。支配者ですもん。 事実上の支配者 生物界における人間のようなもの 世界に開いた穴の縁 だとしたら、利用しない手はないわな。 私が浅はかでした。 科学は 宗教家にとって、とっても魅力的な「打ち出の小槌」、「万能薬」、「諸刃の剣」、「ご老公の印籠」 物理学者は、容易に教祖に転向しうる。そりゃあそうだわな。量子力学を手中に収めりゃ、宇宙の意思だって為すがまま。 なんと便利な道具か。 |
|
不思議な宗教
|
|
2009/11/19(Thu)
|
|
キリスト教のことである。
世の中に開いた穴の縁を繕うのは、科学の仕事である。 しかし、なぜ世の中に開いた穴の縁を繕う必要があるのだろう? だって、世の中に開いた穴は、宗教によって補完されているではないか? だとしたら、その穴を繕う理由がない。 にも関わらず、その縁は、科学によってせっせと繕われる。 世界に穴が開いているから、宗教の存在意義がある。 世の中の穴が埋まってしまったら、宗教は必要なくなる。 だから、既存の宗教は、科学に抵抗する。 だって、科学によって自分達の領域が犯されるから。 しかし、キリスト教は不思議な宗教だ。 科学が穴を繕う理由は、キリスト教が与えている。 科学が穴を塞いでしまったら、キリスト教はいらなくなってしまうのに。 究極の自己犠牲。 しかし、自分を小さくしていくことが、世の中の理。 私は、そのうち消えてなくなる。他者のために、身を捧ぐ。 科学の発展のために、前世代の科学は喜んで死ぬ。だって、それが科学の使命だから。 私は、このキリスト教と仏教を融合できないかと考えている。 日本人が、国際社会で役目を果たしていくとしたら、 そういう方面ではないのか? |
|
本能
|
|
2009/11/19(Thu)
|
|
近代主義をつきつめていくと、
愛が必要になる。 愛する気持ち、感謝の気持ち、 個人主義をどんどん進めれば、 必然的に、愛する気持ち、感謝の気持ちがとても大切になる。 だって、それがないと生きられないから。 自分は自分、他人は他人 を進めると、他人に対して思いやりが発生する。 だって、そうしないと、とても暮らしにくくなるから。 中途半端に身内だけでくっついていると、そういうことがわからなくなる。 だから、私は、つるむのが嫌い。 |
|
嫌悪感の正体
|
|
2009/11/19(Thu)
|
|
なんとなくわかった気がする。
ようは、宗教の根拠を科学に求めているのが気に入らないのだ。 1.宇宙は、ビッグバンにより生じた。 2.宇宙のすべてはつながっている。 3.すばらしい。 1.は科学。 2.は、1.の解釈 3.は、2.の感想 例えば、 「宇宙は、元は一つだったが、ビッグバンという大爆発により、バラバラになった」 という解釈も可能。 例えば、 「私は宇宙の一部分に過ぎない。宇宙から見たら、私など埃一粒の価値もない。」 と感じることも可能。 例えば、 1.宇宙は、ビッグバンにより生じた。 2.宇宙のすべてはバラバラだ。 3.すべては無意味である。 と導くことも可能。 2.、3.は、科学ではない。 1.は科学。だから、2.、3.は科学的根拠があるとするのは誤り。 |
|
論理療法の限界
|
|
2009/11/19(Thu)
|
|
論理を突き詰めていくと、端にたどり着きます。
その端を規定しているものは論理ではありません。 同様に、論理療法を突き詰めていくと、必ず端に当たります。 そうなると、もう先には進めません。 従って、こういうケースでは、論理療法は有効ではありません。 しかし、著書によると、論理療法はある程度有効とのことです。 なぜでしょうか? それは、おそらく、術者と患者とが論理の端、つまり宗教観を共有しているからだと思います。 宗教観を共有していない場合、論理療法は有効ではありません。 例えば、「宇宙の中のすべてはつながっている」だから「すばらしい」⇒「あなたはすばらしい」 こういうふうにもっていくためには、「宇宙の中のすべてはつながっている」のは「すばらしい」という感覚を共有している必要があります。それがないと終わりです。なぜなら、「宇宙の中のすべてはつながっている」と「すばらしい」とは論理的につながっていないからです。 |
|
近親憎悪
|
|
2009/11/18(Wed)
|
|
主に、職業科学者(大学教授 etc.)の中で、「水からの伝言」を執拗に叩く人たちがいる。
「水からの伝言」の中における科学っぽい言説が科学的に間違っており「科学」に対する誤解を招く、というのが彼らの主張。彼らの言葉を借りると、「善意のリソースの無駄遣い」と。つまり「水からの伝言」を放置しておくと、社会的損失になりうると。だから、叩くと。 *ちなみに、「水からの伝言」の言説を短くまとめると、「水に『ありがとう』のような“良い言葉”をかけると“美しい結晶”ができ、『ばかやろう』のような“悪い言葉”をかけると“醜い結晶”ができる(または、結晶ができない)」というもの。 このような言説を実際の科学と間違えられると確かに社会的損失だわな。でも、科学と間違えられなければ、おまじないの一種だと思えば、いや、おまじないならば科学になりうるよな?つまり、「“良い言葉”をかけると“美しい結晶”ができると信じて実験をすると、“美しい結晶”ができることが多い」つまり、「信じて行動すれば実現する。」 ノーベル物理学賞の小柴昌俊博士もそういっている。「やれば、できる。」と。あっ、でもこれは、物理学じゃあないけどね。 「水からの伝言」を「信じて行動すれば実現する」系のメッセージとして受け止めるならば、叩く理由はない。しかし、「水からの伝言」では、言葉の発する“波動”が水の分子に作用して美しい結晶を作らせるというような説明をしているために、ある種の人たちから凄く嫌がられるのではないかと思う。 ある種の人たちとは、職業科学者の一部のこと。彼らの反応は、アレルギー反応に近い。過剰反応というか、嫌悪感むき出しの反応。やはり、彼らの領域に対して脅威を感じるからああいう反応になるのだろう。脅威を感じていなければ、無視、放置可能だけど。SFの科学的記述が間違っていたからといって目くじらを立てる必要はない。だって、SFは、科学者の領域と競合しないから。(本当か?) つまり、「水からの伝言」は、ある種の職業科学者の領域を侵犯するゆえに、かように叩かれるはめに陥ったのであろう。 まぁ、いいや。今日の本題は「水からの伝言」ではない。 「つながりコスモロジー教」のほう。 「つながりコスモロジー教」についてはご存じない方が殆どだと思うのでリンクを貼っておく。 伝えたい!いのちの意味―岡野守也の公開授業+α ここの主張は、「宇宙は、137億年前にビッグバンによって生まれた」「宇宙に存在するものは、すべてビッグバンの子である」「すべては宇宙とつながっている」「私もあなたも137億年のプロセスを経て生じたかけがえのない存在である」そのように考えると「人生に意味がある」ように思えるだろうと言っています。 だけど、私は、そのようには思えません。「私もあなたも137億年のプロセスを経て生じた存在である」ということは認めますが「かけがえのない存在」かどうかは、経過年数とは無関係に思えます。だから、そこから導き出される結論「人生に意味がある」にも同意できません。 「137億年のプロセスを経て生じた存在」だから「かけがえのない存在」だというのは、そのように思いたいからそうであるということです。ようするに、「なぜ137億年のプロセスを経て生じた我々はかけがえのない存在なのか?」という問いには回答困難です。つまり、信じたいから信じるということです。だから、このような考え方は宗教なのです。このように考える考え方を私は「つながりコスモロジー教」と呼んでいます。 つながりコスモロジー教の特徴として、ばらばらコスモロジーの忌避があります。ばらばらコスモロジーとは、「宇宙は物質でできていて、人間は、物質の集まりである」とする世界観です。このような世界観をもつと「人間は所詮物質に過ぎず、死んだら無に還元する存在に過ぎない」と。だから、「人生に意味はない」と。ニヒリズムに陥るというの主張です。この文脈の「だから」もつながりません。なぜ、「物質」だと「過ぎない」なのに、「物質ですらない宇宙のエネルギー」だと「かけがえのない」になるのでしょう? 物質だからくだらないのでしょうか? エネルギーならよいのでしょうか? 結局説明困難です。理由がないからです。そのように思いたいだけだからです。従って、これは宗教です。 私は、宗教が嫌いな訳ではありません。私は、宗教がなければ生きられません。宗教によって世界に開いた穴を塞いでいるから生きていられるのです。 そのせいでしょうか?宗教を大切に思っているのです。だから、宗教のくせに「宗教でない」というようなことをいう論調に“嫌悪感”を抱くのです。 これに類する“嫌悪感”に「ニセ科学」があります。つまり、科学でないのに科学のふりをする、つまり「科学を騙る」ものです。科学のことを大切に思っている人が「ニセ科学」に嫌悪感を抱くのは当然でしょう。 |
|
世界観
|
|
2009/11/14(Sat)
|
|
永劫回帰も一顆明珠も所詮は人間が見えている範囲の知覚で世界をそのように捉えたものに過ぎない。だからなに?
「結局、人間なんて単なる物質に過ぎない」という言い方と 「モノですらない」とする世界観と 「我々は星の子だ」というのと、 「その辺の塵も星の子だ」というのと、 「私と塵は大差ない」というのと、 どんな方便を使おうが、価値が変わるわけではない。 いや、変わるか? 「大差ない」といってしまうと、それは、変わらないと言っているに等しいし。 つまり、私の発言も方便だ。生きるための。 生きる意味が無いと生きられないのでは困る。塵と等しくても、居るということは居ていいということだ。 私は、新興宗教が大嫌いだ。 「星の子」とか言われると虫唾が走る。 なぜだろう?なぜそんなにいやなのだろう? 『水からの伝言』を執拗に叩く人たちがいる。 これは近親憎悪の一種だと思うが、 私の虫唾の原因もそういうことか? つまり、「星の子」の主張に近親憎悪を感じているのか? 私は、とても迷信深い人間だ。だから、迷信の類の話を聞くと心が揺さぶられる。 つまり、迷信に弱い。だから、迷信めいた主張には、とことん過剰反応する。 つぶしたくなる。目障りだ。なぜ、目障りか?だって、心を乱されるから。 137億年の話を聞いたら感動しなければいけないのか? では、感動できない人は片端か? 訓練すれば、誰でも感動できるようになるのか? そもそも理屈がおかしいよね?だから、イヤなのか? では、なぜ理屈のおかしな主張が嫌いなのか? それとも、理屈のおかしな主張だから嫌いなのか? 押し付けがましいところがイヤなのか? まぁ、両方だね。 迷信めいた話をまことしやかに述べていて、罪や恥の意識を感じないというところがイヤなのか釈然としないのか? |
|
神話
|
|
2009/11/13(Fri)
|
|
宇宙はビッグバンから始まった。
紆余曲折を経て、人類は生まれた。 太陽も月も星も地球もヒトも動物も植物も、元は一つのエネルギーだった。 私たちは、星から生まれた星の子である。 同様に、眼前を漂っているほこりも星の子である。 私たちは、何物をも0から作りえない。 眼前のほこり一つ、0から作るには、ビッグバンからはじめなければならない。 このように考えるのも一種の神話である。 現在の科学の定説がそうだから、大衆は無批判でそれを受け入れているというだけのこと。 前提が覆れば覆る。 いつかまた、永劫回帰する世の中が来るかもしれない。意外と簡単に来そうな気がする。 だって、「じゃあ、そのビッグバンはどうして起こるのか」とか「この後、宇宙はどうなっていくのか」とか考え始めたら、ビッグバン以前、宇宙死滅後のことも必然的に考えなければならず、また、宇宙は1つでないとか、いろいろな情報をかき集めると、単にのん気にビッグバンだ星の子だなんて浮かれて居られない気がするけど。それも“方便”と言いたいのだろうか? そんな子供だましみたいな方便が通じるのだろうか? |
