臓器移植を巡る発言について

毎日新聞 2009年7月3日朝刊 統12版 11面「論点」のコーナーに、「15歳未満の臓器移植を考える」という記事が載っていた。3人の論者の意見が並んでいる。その中で渡辺淳一氏の意見に反感を覚えたので、自分の意見と併せて掲載する。

医師として数人の脳死患者を直接見て、脳死は人の死と確信した。
(中略)
日本人は肉体に執着しすぎる。これは感性の問題かもしれないが一方で、医学の進歩はすさまじい。特に専門的な最先端分野ほど進むが、脳死も極めて専門的な問題だ。一般国民が議論するテーマではなく、国民的な合意を得るのはきわめて難しい。医学の進歩に日本人の倫理観がついてこられなかった結果だが、感性も医学の進歩に合わせる必要があるのではないか。


論旨を整理してみる。
・脳死は人の死である。
 医師の立場として、そう確信している。
・脳死は極めて専門的な問題であり、一般国民が議論できるようなテーマではない。
 つまり、「脳死が人の死か否か」は、医学の専門家が判断すべき。
・日本人は肉体に執着しすぎる。
・日本人が肉体に執着するのは、感性の問題である。
・感性も医学の進歩に合わせる必要がある。
 つまり、医師ら専門家が一般国民を啓蒙し、感性を変えていく必要がある。

渡辺氏は、「日本人は肉体に執着しすぎる。それは感性の問題である」と言っているが、その感性がどこから来るのかについての深堀りが不足している。

私の意見:
・「死の定義」については、宗教・思想の問題である。
・「検死(死の判断)」については、医学の問題である。
・「脳死」の問題は、“定義”の問題と“判断”の問題を含む。
 従って、医学的見地から一義的に「脳死を人の死」と決めることはできない。

・日本が他の先進国と異なる点のひとつに“宗教”がある。
 (他の先進国は全て一神教)
 「死の定義」が宗教観に依るものである以上、国民性が反映されるのは当然。
 よって、「脳死を人の死」とする考え方が日本人になじまないのは、ある意味当然。
 いくら啓蒙したところで宗教観まで変えることはできないので、今後も「脳死を人の死」とする考え方は受け入れられないだろう。

脳死は人の死か

脳死した人の体から取り出した臓器は、死んでいる臓器か、生きている臓器か?
移植に使用するのであれば、「生きてきる臓器」のはずだ。「死んでいる臓器」であれば、移植の役に立たないはずだから。

脳死は人の死か?
仮に、「脳死は人の死」ということにしよう。
ということは、脳死した人の体は、「死体」ということになる。

脳死した人の体から生きている臓器を取り出すということは、
「死体」から「生きている臓器」を取り出す、ということになる。

「生きている臓器」を取り出せるからだが「死体」であるというのには、矛盾を感じる。

「脳死」は、脳のみが機能停止し、他の臓器は生きているという“特別な状態”だ。この状態を以て一律に人の死とするのは、いくら臓器移植を推進するためとはいえ、いくらなんでも乱暴すぎるのでは?

「脳死状態であれば、合法的に臓器移植可能」ということを法的に担保しておけばよいだけのことではないか?

もちろん、臓器授受者の間で、脳死判定を受け入れる、臓器授受の意志があるということを事前に確認しておく必要がある。臓器授受者が低年齢であれば、自力で判断できないこともあるだろう。その場合は親権者の判断に委ねるしかない。親は子に対して責任がある。

臓器移植法改正案にまつわる意見について

自分の意見を書く前に、国会議員のブログを見てみます。
石破 茂ブログ

…私自身は、これが最善とはいえないもののD案を支持しており(A案の可決により採決には付されませんでしたが)、A案には反対票を投じました。理由は以下の通りです。
・ 個人的に、脳死を一律に法律上の人の死とすることには納得できない部分があるため、A案には賛同できませんでした。…

岡田克也ブログ

…私としては、基本的に「脳死は人の死」であると考えていますので、A案がいいと考えていました。したがって、私自身もA案に賛成の投票をしました。…


自分の意見を載せます。
私自身は、「脳死は人の死」ではないと考えていますので、A案には賛成できかねます。
しかし、「脳死は人の死である」と考える人が少なからず居るのも事実です。
このように、「脳死は人の死であるか否か」は人によって意見が分かれます。
なぜ意見が分かれるのかというと、それは個人の“死生観”に基づくものだからです。
臓器移植を是とする人は、その前提として脳死を人の死として受け入れているのでしょう。
私は、脳死を人の死として受け入れている人々の間で臓器移植が行われるのを妨げようとは思いません。

さて、A案ですが、『死体(脳死した者の身体を含む)』という表現が冒頭にあり、法案の中では一律 脳死を人の死 として扱っています。さて、ここで問題なのですが、これは、「この法案の中に限定して『脳死を人の死』として扱う」ということなのでしょうか?それとも、一般的に「脳死は人の死である」ということを表現したものなのでしょうか?後者だとすると、人々の死生観を法で定義し、「脳死は人の死でない」と考える死生観を一律誤りとして扱うことになりますので、問題です。

石破農水相の意見の良くわからない点は、「個人的に、脳死を一律に法律上の人の死とすることには納得できない部分がある」としている点です。個人の死生観による死の定義を法に明記することについて、「個人的に納得できない部分がある」というのは、具体的にいうとどういうことなのだろうかと疑問に思います。
判断を法で定義するということは、その判断に個人の解釈が入る隙が無いということであり、「脳死を人の死」と法で定義するのなら、脳死の定義について個人の死生観が入り込む隙がなくなります。一方、現実の世の中では「脳死が人の死か否か」については、個人の死生観に基づいているのですから、あきらかに矛盾しており、問題であるに決まっています。個人的な判断が入る隙があるような話ではないと思います。

追記)「『脳死が人の死か否か』については、個人の死生観に基づくものである。」というのが私の意見の前提になっています。A案に賛成する人は、この前提に否を唱える人ということになります。衆議院議員の過半数が、「脳死を人の死である」とし、「脳死の定義は、個人の死生観に依るべきでない」と考えているとは、驚きを禁じえません。

ジェンダー

“ジェンダー”という言葉をよく耳にするようになったのは、いつの頃だろう。
私、この言葉嫌いである。
ジェンダー(wikipedia)より、

『「ジェンダー」定義をめぐる混乱についても、もともと、ジェンダーの定義が導入時に「社会的文化的性差」と誤訳されてしまった、という問題が大きいと思う。英語でいう「ジェンダー」は「性差」ではなく、「社会的・文化的な性のありよう」といった意味合いだ』。

「社会的・文化的な性のありよう」なら良いのだけどね。そういう意味で使われていないよね。
なんでこの言葉が嫌な響きを持つのか?いや、もともとそのような響きを持っている言葉ではない。この言葉が嫌なシチュエーションで使われるから、嫌な響きを持つように感じられるようになったということだろう。その嫌なシチュエーションとは何か?もう少し調べてみよう。
ジェンダーフリー(wikipedia)

日本においてジェンダーフリーが使われたのは、既に時代遅れになっている第三波フェミニズムのジェンダー論を、男女共同参画の政策目的で輸入したときの和製英語化による。これに、日本の(旧来の)フェミニストが飛びついて時代遅れの論戦を張ったため批判が集中し、ジェンダーフリーとはジェンダーレスではないとの反論を張ったが、これは元々の本家のアメリカの女性学で前世紀に展開されたジェンダー論が何であったかを無視したご都合主義の論調である。ジェンダー論とは、元をたどればまさに男らしさや女らしさなどの性的特徴から自由になろうというものであった。これを日本の政府が「政策目的」で徴用したわけである。

本来の意味を曲げて、自分達の都合の良いように価値観を押し付けるような使い方をされるので、この言葉が“嫌な匂い”を醸し出すのであろうか。この説明を読んで、なんとなくそんな気がしてきた。

もう、この辺の議論は沈静化しているのであろうか。
なぜ、いまさら“ジェンダー”の話なのかというと、つい最近、子供の目に付くところに“ジェンダー”に関する冊子が置いてある公共施設に行く機会があったからである。いやでも目に入るから、手にとって見てしまった。明らかに誘導的な内容で、不快感を覚えた。
なんでこうなるのだろう。
これは、ジェンダーに限った話ではない。
理念が理解されず、形だけが歪んだ形で広まる。
「上がうるさいから、とりあえず形だけでも合わせておけ」という発想なのだろうか?
こういう冊子つくっている人は、どういう思いで作っているのだろう?

でも、世の中そういうものかもしれないな。
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と言うが如く、
上の志は、下には理解できないのが普通。

いったい、何の目的で「男女共同参画社会」を目指しているのだろう?
どういう「男女共同参画社会」を目指しているのだろう。
(理念って、具体的行動に落としていく過程で希釈し忘却される。)

陽は、また昇る

歌ネット - アラジン(羞恥心+Pabo) - 歌詞 - 陽は、また昇る
陽は、また昇る - Wikipedia
最近、この歌をよく耳にする。気に障る歌だ。
どうも、なんかずれている。
日本のサラリーマンの応援歌だというが、なんか他人事のような印象を受ける。
過去の実績、技術立国としての実績を並べて、「こんなにすごかったのだから、これからも頑張ればなんとかなるはず」って思いたいのかな?「今の日本は頑張りが足りない」と言いたいのかな?
この視線って、『他人事』だよね?
上の世代の過去の実績を取り上げて、「もっと、頑張ろう」という言い方は、自分達の問題としてとらえていないような気がして、どうもひっかかるのだけど...

Amazon.co.jp: 陽は、また昇る(DVD付): アラジン
カスタマーレビューを見ると、いろいろな意見が載っている。「元気が出る」という人もいるので、しかも、サラリーマンで元気が出るという人もいるので、まぁ、元気が出るのなら、それはそれで構わないけど。
それにしても、カスタマーレビューで、他のカスタマーレビューを批判しているケースが目立つ。批判の仕方を批判する、みたいな。批判批判は、自己矛盾[1]なんだけど。自己矛盾だと自覚して自己否定するレビューもあったりして、訳わからない。

[1]例えば、この楽曲を「商業主義的」という観点で批判した人がいたとする。
すると、「楽曲の中味について批評すべきで、背景批判はすべきでない」という意見が出たりする。この「楽曲の中味について批評すべきで、背景批判はすべきでない」という意見自体が、楽曲の中味についての批評ではないので、自己矛盾している。つまり、自分自身がすべきでないことをしていることになる。

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山田ズーニーさん #2

彼女は、『メディア力屋さん』なのか?
『メディア力屋さん』だとしたら、『メディア力』を一義に据えるのも うなずける。
だが、それは、彼女の視点だ。『メディア力』を売りたい彼女のエゴだ。
自分の方ばかり向いているから、彼女の文章には『メディア力』を感じない。
もう少し利用者の立場に立った物言いはできないものか?

聞き上手になるには「おかん」に学べ!(by NBオンライン)
新人相手に、海千山千の「おかん」の聴き上手を説く、というセンス。
とても、読み手の立場に立っているように思えない。
使えない人に、高い道具を売りつける、まるで『押し売り』のよう。

山田ズーニーさん

『どうして、山田ズーニーさんの書くものは、心に響かないのか?』というテーマで何回か書いているが、「ひょっとしたら、山田ズーニーさんの書くものの中に心を動かされるようなものもあるかもしれない」という淡い期待のもとに、いろいろ調べてみる。

山田ズーニー の 「おとなの進路教室。」
とりあえず、『Lesson126 郵便配達をまちわびた38歳 』だけ聴いてみた。自らの体験を語っただけに、ずしっと重いものを感じた。価値のある内容である。しかし、今の自分とって、考えるきっかけとして役に立つような内容ではなかった。これ以上聴く気がしないので、止めておく。

新人諸君、半年は黙って仕事せよ。

評価のポイントがずれている。新人には読ませたくない内容である。真に受ける人がいたら困る。彼女の文章は、それなりに人の心をつかむように工夫されているから、このような内容でも「なるほど!!」とか言って納得してしまう人が居ても不思議ではない。

あなたの話はなぜ「通じない」のか(by Amazon)
やはり、重視すべき点が完全にずれている。真に受ける人が多いのには驚く。このように、たいした内容ではないのにも関わらず、説得力がある文章が書けると言うのはすごいことだと思う。メディア力の危険性についても書いた方が良い。間違ったことでも、メディア力が大きいと「正しい」として伝わってしまう。

私にとって「メディア力」というのは、「戦術」「スキル」「二義」等の言葉で表せるもので、「功罪」を理解した上で、きちっと管理下に置いてツールとして使用すべきものである。新人の教育に使うべき代物ではない。彼女のように、それを武器として前面に押し出すような姿勢は、本末転倒の感が否めない。

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弱いがゆえに

私は弱い。競争に負けて、不利なくじを引かされた。
私は、物を持たず、力も持たず、隅に追いやられても文句ひとつも言えず、
その上、その境遇を自己責任扱いされ、不当に搾取された上に蔑まれ、
不衛生な環境におかれ、食べ物に毒を盛られ、健康を蝕まれ、精神を蝕まれ、
未来を閉ざされ、でも、この環境を与えられたことに感謝している。

最初から、物に恵まれ、人に恵まれ、才能に恵まれ、健康に恵まれ、天賦の権力を与えられ、
知恵を与えられ、長い寿命を与えられ、何ひとつ不自由のない状態を与えられたなら、
私の精神は育たなかっただろうから。

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中途半端

一般に、『中途半端』はよくないとされている。
しかし、本当にそうか?考えてみる必要がある。
なぜ、考えてみる必要があるかというと、現実に私の近くに「『中途半端』はよくない」という価値観の人が居て、そのお蔭でこちらに被害が及ぶことがあるからである。

『中途半端』で良くないものは、確かに存在する。
例えば、建造物とか。
50%完成した時点で工事をストップする。
建造物は、100%近く完成しないと殆ど役に立たないものだから、50%完成した時点で止めて、その後工事を再開しないのであれば、掛けた金と時間が全部無駄になる。

『中途半端』でも、それほど悪くないもの。こういうものも確かに存在する。
例えば、『掃除』とか。
もちろん、100%完了すれば、それはそれで気持ちいい。
しかし、『掃除』というものは、100%に近付けば近付くほど労力が掛かるものなのだ。
私の肌感覚的な表現を使用するなれば、掃除の成果≒e(ln(労力)*0.322)となる。
これによると、100%の掃除を完了する労力を1とすると、約12%の労力で、約50%の掃除が完了する計算になる。つまり、ある程度の乱雑さを許容することで、極めて効率的に快適に人生を過ごすことができるのである。

ところが、私の近辺には、掃除に対しても、「中途半端にやるより、やらないほうがまし」という価値観の持ち主がいて、その結果、身の回りが耐えられないくらいの乱雑さで放置されるという結果になっている。但し、そのような人でも「やるときはやる」「やるとなったら徹底的にやる」ので、人生の間のほんの短い間、乱雑さが信じられないくらいに低くなることがある。
仮に乱雑さの増え方が等比級数的だとして、乱雑さの許容限界が0.75だとして、
Aさんは、乱雑さが0.75を超えると、乱雑さが0.5以下になるまで掃除をして、
Bさんは、乱雑さが0.9375を超えると、乱雑さが0になるまで掃除をするとする。
Aさんが、一回の掃除に掛かる労力を1とすると、Bさんが一回の掃除に掛かる労力は、先程の計算式より、約25。Aさんが4回掃除をする間にBさんは1回掃除をする計算になるので、時間当たりに換算すると、Aさんの労力1に対してBさんの労力6.25。但し、Bさんの場合、時間の半分は乱雑さが許容限度の0.75を超えた状態で過ごさなければならない。Aさんの6倍以上の労力を掛けて、Aさんの半分の快適性しか得られないなんて、なんてつまらない人生だろうと考えてしまうわけであるが、Bさんが「中途半端にやるより、やらないほうがまし」「やるときはやる」「やるとなったら徹底的にやる」を人生哲学としている以上、いくら口をすっぱくして説明したところで、どうなるものでもない。ましてや、Bさんのもとで働くのであれば、なおさらである。
でも、私は、自分の人生哲学を曲げない。いくら評価されなくたって、Bさんのようには生きられない。私は、Aさんのように生きるしかない。私がBさんのマネをしたところで、すぐへばってしまうので、結局評価されない。(だって、無駄なエネルギーを使って生きれるほどタフでないから。)体力を無い私は、体力をセーブして、最大限に効率的に生きる方法を考えて実践していくしか、生きる道はない。

管理

『管理』が好きな人は居るのだろうか?
私は、どちらかというと『管理』が好きな方である。
でも、世の中には『管理』が嫌いな人も居るようである。
まぁ、そうだろう。
好きな人も、嫌いな人も、中間の人も居るだろう。
『管理』が嫌いな人は、『管理』という言葉が示す嫌な部分を見て嫌いになっているのであろう。
『管理』が好きな人は、『管理』という言葉が示す好ましい部分を見て好きになっているのであろう。
『管理』に限らず、そういうものだ。
というわけで、今日は『管理』とは何かについて考えてみよう。

まずは、辞書的な意味合いから。
【管理】(by yahoo辞書)

1 ある規準などから外れないよう、全体を統制すること。
2 事が円滑に運ぶよう、事務を処理し、設備などを保存維持していくこと。
3 法律上、財産や施設などの現状を維持し、また、その目的にそった範囲内で利用・改良などをはかること。


要は、生きるために必要な営みのひとつだ。
壁にぶつからないよう、崖から落ちないよう、進むべき道からあまり外れないようにするためのゆるい規制、それが『管理』だ。
こういう見方をするならば、『管理』は、「必要なこと」であって、「好き嫌いの対象」としてみるのはおかしい気がする。でも、現実問題として、『管理』が「好き嫌いの対象」として扱われることがある。ということであれば、『管理』の「好き嫌いの対象」としての側面に着目する必要がある。

先に述べたとおり、『管理』という言葉自体が指し示す内容自体は、「好き嫌いの対象」となるようなものではない。ではなぜ『管理』という言葉に「悪いイメージ」を持ったりするのだろうか?
先程も言ったとおり、「『管理』が嫌いな人は、『管理』という言葉が示す嫌な部分を見て嫌いになっているのであろう」ということであれば、『管理』という言葉を用いた「悪いイメージ」の具体例があるはずだ。ということで調べてみた。
『管理教育』(by wikipedia)

管理教育(かんりきょういく)とは、学校(教員)が一元的に児童・生徒の在り方を決定し、これに従わせる様式の教育方法、ないしその方針である。

この文章の信憑性や真意については、よくよく検討する必要がある。しかし、敢えて文面どおりに解釈するなれば、児童・生徒の在り方について、当人(児童・生徒)に関与させない、というところに主眼が置かれていて、肝心の『管理』については触れられていない。児童・生徒の在り方について、児童・生徒を関与させるかどうかという話は、『管理』とは関係がない。なんでこれを『管理教育』というのであろうか?
wikipediaの説明は、全く納得できないので、別のページを探してみる。
「せんせいのおしごと」教育と管理

公教育における学校では、生徒を管理することが絶対に必要不可欠です。

まったくだ。

生徒の行動や生活についての指導、指示が厳しくエスカレートしていく状態を管理主義と呼びます。

なるほどそういうことか。『管理』そのものを『管理主義』と呼ぶわけではなく、「生徒の行動や生活についての指導、指示が厳しくエスカレートしていく状態」を『管理主義』と呼ぶわけだな。この「エスカレート」の部分が問題なわけだな。しかし、この「エスカレート」は、『管理』が「エスカレート」しているわけではなく、「指導」が「エスカレート」しているわけで、その所為で管理が行き届かなくなっている状態であるわけで、「行き過ぎた管理教育」などという言い方があるけど、これは、『管理』が行き過ぎなのではなく、「管理」上のマイナスとなる「問題のある指導」が行き過ぎなのであって、「行き過ぎた管理教育」などという表現はそもそも管理の本質を捉えた表現になっていないわけである。だいたい「行き過ぎた管理」などという概念は、存在しない。「行き過ぎた管理」の結果、管理がうまくいかなくなっているのであれば、それは「行き過ぎた管理」ではなく、「管理がまずい」状態なのである。必要以上の厳しい規制や指導を行うことを指して『行き過ぎた管理教育』などという言い方をすると、まるで『管理』が悪いことのような誤解を与えかねない。いったい誰がこういう表現を使って広めるのであろうか?
ここまで整理すると、『管理』という言葉に「悪いイメージ」を与えている具体的事例として『管理教育』という言葉を取り上げて考察を試みた。結果、「管理教育」という言葉が一般的な文脈の中で用いられる場合、本来『管理』という言葉が指し示す意味とは無関係なことを指しているということがわかった。つまり、これは単なる言葉の誤用であるから、これをもって『管理』という言葉に悪いイメージを抱いてしまうと、本来『管理』という言葉が持っている意味を勘違いしてしまう可能性がある。
(未推敲)