『唯識と論理療法』 #4
2009/11/02(Mon)
『唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践』(岡野 守也 (著)
この本は、唯識について学問的な見地から考察したというよりも、むしろ唯識の布教を目的としたものである。大学で教えるような内容ではない。宗教 もしくは 論理療法の「実技」という意味合いはあるのかもしれないが、唯識の枠組みを受け入れられない人に対しては治療効果を持たないのではないか?唯識の枠組み(例えばマナ識とかアーラヤ識とか)自体には意味はない。ただそのように定義したからそのようであるというだけのこと。そう考えるのがなぜ良いのか説明がない。
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覚者の悩み
2009/10/30(Fri)
『唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践』(岡野 守也 (著)より引用
三性説をわかりやすく説明すれば、なぜ人間は迷ったりまちがったりするのか、その基本的な仕組みは、よほど理論の苦手な人でなければたいていの方は理解できるようです。
と書かれていますが、あいにく私は“よほど理論の苦手な人”に該当するらしいので、理解できませんでした。
まず迷いの起源が遍計所執性(分別性)視点のものの見方にあるというところ。
確かにそういう起源の迷いもあるでしょう。
それは、円成実性(真実性)視点のものの見方によって解決すると。
それもそうでしょう。
仮に、遍計所執性(分別性)をA、遍計所執性(分別性)による迷いをB、円成実性(真実性)をCとすると、
A≠C、A⊃B ⇒ C⊅B

遍計所執性(分別性)視点起因の迷いは、遍計所執性(分別性)視点を止めれば無くなる。
それはそのとおりだ。
でもそれは、「なぜ人間は迷ったりまちがったりするのか」の説明にはなっていない。
人間が迷ったりまちがったりする理由の一つが遍計所執性(分別性)視点にあることを示しただけだ。

人間が迷ったりまちがったりする理由は、知らないことがあるからではないか?
知っていれば迷う必要はない。間違えることもないだろう。(わざと間違えないかぎり)
知らないことがある以上、迷ったりまちがったりするだろう。だから覚者といえども迷ったりまちがったりするのだ。もちろん、凡夫よりいろいろ知っているので間違いは少ないだろうが。

「三性説をわかりやすく説明すれば、なぜ人間は迷ったりまちがったりするのか、その基本的な仕組みは、よほど理論の苦手な人でなければたいていの方は理解できる」というが、この説明ではわからない。ふつうはわからないだろう。そういいたいのなら、人間の迷いや間違いの大半(厳密にはすべて)が遍計所執性(分別性)視点にあるということを示さなければならない。
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『唯識と論理療法』 #3
2009/10/30(Fri)
『唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践』(岡野 守也 (著)から引用
〜ご先祖さまのだれか一人でも、その努力をさぼったら、あなたはここにはいないんです。(10代で)1,024人ですよ。すごいですね。―それで、その先はまだありますね。20代さかのぼると、何人くらいだと思いますか?1,048,576人なんです。100万人以上のご先祖さまです。想像してみてください。さらに30代までさかのぼると、1,073,741,824人、40代さかのぼると10兆以上です。遠縁の親戚同士で結婚すると実際はご先祖さまが重なっていますから、これは延べ数ですが、それにしても10兆のご先祖さまのその一人でもさぼったら、あなたはここにいなかったわけです。あなたという存在はそういう膨大な努力の成果なんですよ。これで『私の存在には意味なんてない』などといったら、ご先祖さまに申し訳ないんじゃありませんか。
なぜ?
10兆人ものご先祖さまの努力の成果があなたや私なんです。そのお陰でここにいるのに、何の意味もないなんてことはありえないでしょう。
なぜでしょうか?全く理由の説明になっていないとおもいますけど。「人手がかかっていること」と「意味があること」は、別次元の話ではないでしょうか?
“人手がかかっていること”⇒“意味があること”が真でない以上、
10兆人の努力の成果が私であったとしても、私自身に意味があることの理由にはなりません。

なぜ私が新興宗教を嫌うのか、その理由がわかった。
真理っぽいことを言っている隙間に、この手の誘導的な話をおりまぜて同意を迫ってくるから好きになれないのだ。
とはいえ、私が生きるためには宗教が必要だから、フィルタリングして必要なところだけを抜き出して利用するしかない。
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超ニヒリズム
2009/10/30(Fri)
近代科学によると、人間はモノに過ぎない。
ところが、現代科学によると、モノですらないとのこと。
私というひとりの人間を0から生み出そうとすると、ビッグバンまでさかのぼらなければならない。
同様に、私の眼前に浮いているホコリを0から生み出すのもビッグバンまでさかのぼらなければならない。
私は、ホコリと大差ない。


参考文献:『唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践』(岡野 守也 (著)
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無題 #5
2009/10/30(Fri)
この世の良くしていくにはどうしたらよいか?
良いと思われることを広めていく。
「世界の根源的な未規定性」の問題があるから、万人にとって良いことというのは存在しない。
だから、この部分は宗教に負ってもらう。
あとは宗派同士で調整する必要がある。
例えば、ある宗教が偶像崇拝を否定したとして、他の偶像崇拝宗教に対して寛容になれるか?
そういうところを調整する必要がある。
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無題 #4
2009/10/30(Fri)
そういう世の中にしないために自分ができることは何か?
まずは、自分自身がそういう人間にならないように努めることだろう。
これはたいへん難しい。
しかし、やっていくしかないね。
まずはヨブ記を読んで共感できるところまで持っていくべきなのだろうか?
ようするに自らの境遇を他人の所為にしないという姿勢が大切なのだけど。
そうは言ってもなかなか思考のクセは止まらない。

そうは言っても落とし穴に落ちてしまったときはどうすれば良いのだ?
手掛かりがないと抜け出せない。
多くの人が落とし穴にはまり、手掛かりが無く抜け出せないという状況が続いているのだとしたら何とする?

でも、そんなことまで考えなくても良いのかな〜?
例えば、太平洋戦争中の話を聞くと、ものすごいストレスにさらされていたと思うのだけど。事実、大量に人が死んでいるので、そのストレスははかりしれないと思うけど。だからといって、私がその場に居合わせたからといって、そのストレスの原因を取り除くような働きができたとは思えないし。ただ、人々に働きかけてストレス軽減に努めることはできるかもしれない。それはそうなんだけど、そんなことするとさらに強烈なストレスを与えられかねないというジレンマがある。イジメの状況から抜け出せない人の気持ちがわかる。でも戦うしかない。疲れたら休む。戦って、休んで。その結果、さらに落ちていったらどうしよう?さらに自分がしぼんでいったらどうしよう?その恐怖がさらに自分を萎縮させる。さらに自分を落ち込ます。でも、いいのか?それが私の生き方だと甘受すればそれでいいのか?だって、人間はどうせ何をしたところで最後はしぼんで無くなるのだ。自分の戦いに意味を見出せないならやめてもいいのか?どう振舞ってもいいのか?どう振舞ってもいいということになると、結局秋葉原無差別殺傷事件や地下鉄サリン事件のような事件を起こしてもいいということになる。それを望まないのであれば、やはり何かすべきだな〜。振り出しに戻る。
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無題 #3
2009/10/29(Thu)
その上で、
例えば、秋葉原無差別殺傷事件や、
池田小児童殺傷事件や、
神戸連続児童殺傷事件や、
西鉄バスジャック事件や、
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件や、
その他、それに類する事件ばかり起こる世の中になってしまったとしても、
それならそれで仕方が無い。

だけど、私は言いたい。
そんな世の中になったとしても、そんな世の中にしてしまった責任の一端は自分にあると。
私が世の中の構成員の1名である以上、世の中に対して1名分の責任を負う。
もし私がそういう世の中を望まないのなら、そういう世の中にしないために自分ができることをやらねばなるまい。
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無題 #2
2009/10/28(Wed)
例えば、赤ん坊を抱いても何にも感じない人は?
例えば、サザエさんやドラえもんを見て、笑えない人は?
例えば、ヱヴァンゲリオン見て、何 にも感じない人は?
例えば、ドラクエを時間の無駄と考える人は?
例えば、ドストエフスキーを「難しそう」とか言って読めない人は?
例えば、東野圭吾を「くだらん」と思う人は?
例えば、ピカソの絵を「下手だ」と思う人は?
例えば、チャイコフスキーを聞いても感動しない人は?
例えば、因数分解に喜びを感じない人は?
例えば、テイラー展開に感動しない人は?
例えば、プロ野球の話題についていけない人は?
例えば、ストリップ劇場を見に行って立たない人は?
例えば、何もしたくない人は?

はい、例えば、世の中の動きに心を動かされない人は?
どうしたらいい?

答え:
どうもせんでええ。

そういうふうでも気にすることはない。
別に、他人と同じところで、他人と同じように心を動かされなくてもいい。

「なせ生きる?」などという問いに答えんでええ。
あるがままの自分を甘受せんでもええ。
後悔したけりゃ後悔してもええ。
泣きたきゃ泣けばええ。
愚痴を言いたきゃ言えばええ。
嫉妬したきゃすればええ。

とにかく、すっきりしなさい。
すっきりすれば、何か見えてくるでしょ?

すっきりしなくてもよい。
すっきりしないときは、悶々としていればいいんです。
そのうち、時間切れとなって死にます。
死期が近づいたら、「あぁ、なんてつまらない人生だったのでしょう」と後悔すればいいんです。

とにかく、「生まれてよかった」「生きれてよかった」と感じるまで、悪戦苦闘していればいいんです。
感じられなきゃ、感じられないまま一生を終えればいいんです。
感じられたらラッキーと思って、神や周囲に感謝して、死ねばいいんです。

好きにして下さい。
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無題
2009/10/27(Tue)
たとえば、満天の星空を見ても感動できない人や、
満開の桜を見ても何も感じない人が救われるにはどうしたらいい?
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『唯識と論理療法』 #2
2009/10/27(Tue)
参考文献:
『唯識と論理療法―仏教と心理療法・その統合と実践』(岡野 守也 (著)
『サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル』(宮台 真司,速水 由紀子 著)

『サイファ〜』でいうところの「世界の根源的な未規定性」と
仏教でいうところの「無常」「無我」と
類似性を感じる。
言っていることは違うけど、根に共通性を感じる。
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